分離し、「時」を生きているということ


 

潜在意識、無意識、というものに深く深くコンタクトを取っていくと、

人間が作ったルールや価値観を越えて、

そこには善悪さえなくなっていくように感じることがあります。

どんな状態であれ「形」をとって表出したすべてを美しいと捉えることができます。

あるいはどんなすべてもそこには意味などないと。

 

 

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そのように書いたことを実感したひとつの例として少しお話をしようと思います。

 

 

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以前に一度、自分で催眠へ入り、深く深く降りていって、

集合的無意識という意識体の大海原へ質問をしてみたことがありました。

 

私はなるべく簡潔な言葉を選んで質問をしてみました。

 

 

ですが、しばらく待ってみても、なかなか返事がありません。

 

アクセスできているかと尋ねると反応のようなものは返ってくるのですが、

質問に対する回答を訊くと、言葉が現れてこないのです。

 

時間をかけて何度か同じ質問を繰り返してみました。

 

それでもやはり回答は返ってきません。

 

 

 

そして、ふと気づいたのです。

 

 

 

投げかけた質問がそのまま返ってきていることに。

 

 

それが集合的無意識からの回答だ。

 

 

と、はっ!とわかりました。

 

 

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集合的無意識という意識のおおもとには、

あなたと私という区別がありません。

なぜならすべては完全に一体だから。

 

なにかについて「考える」には、他者が必要です。

自分に属しているものと、属していないもの、という分離の意識が必要です。

 

もっと言うと、「自分」という意識の感覚自体が、

全体からの分離の錯覚を起してはじめて認識できるもの。

 

集合的無意識にはそれがないので、

質問、という概念がありません。

そこには「時」というものがなく、

ただ「状態」があるだけ。

私たちが質問を持ち、いつか回答を見つける、

その時間の流れをすべてひとつの点でもともと内包しています。

 

 

その集合的無意識の中から、

ひとしずくの雨粒となって分離の感覚を起している私たちは、

そのかわりに、今「時」を得て、「状態」の体感をしている最中です。

 

 

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「質問」を生み出した瞬間に、

同時にどこかに「回答」が生まれる。

 

そのことが、あなたが今、あなたとして存在し、自分自身を体感している最中だ、

おおいに楽しんでいらっしゃい、と言われているように感じました。

たとえその体感が悲しみや苦しみであれ。

 

いずれまたひとつになった時、

「時」の中でしてきた体感はすべての意識へ溶け込み、

そこに他者はいないのだから、

悲しみも苦しみも、あるいは極端な喜びや極端な興奮もないのだと。

(ここについてはまたべつの記事で書きます)

 

 

そしてその集合的無意識の全体には「愛」という波動が流れている。

 

そこからこぼれおちてきたひとしずくの私たちが時の中で見せるすべての表現、

抱く感情は、どんなに極悪なものから凛とした純白なものまで、

はみ出すことなく「愛」というものの側面なのだと思いました。

 

 

「恐れることなく、今を生きよ」

 

と、集合的無意識はこたえてくれたように思いました。